そこはかとなく、いじらしく。
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空想:過去からの嘲笑

JUGEMテーマ:ショート・ショート

 

「――あと、はんぺんと卵も……あ、ツユ多めにお願いします」

 

会計を済ませて家路へと向かう。今日は、いまコンビニで買ったおでんを肴に熱燗を飲もう。徳利に酒を注いで、水を張った鍋に置いて火にかける。沸騰するまでの間にシャワーや着替えを済ませる。熱燗にするのだから、酒は安いやつでいい。この間買ったやつがまだ結構残っているはずだ。

 

おでんが冷めないようにと足早になる。しかし走ってしまうとツユがこぼれてしまう。ツユは食べ終わったあとに出汁割りにして飲むから、大切にしなければならない。

 

玄関の鍵を開けてドアを開くと、煙草やコーヒーのかすや体臭などの、俺の「生活の臭い」がした。おでんをテーブルに置いて、早速熱燗に取り掛かった。そしてざっとシャワーを浴びて、床に脱ぎ捨てられた寝巻きに着替える。まだ沸騰はしていなかった。煙草に火をつけて、鍋をじっと見ていた。

 

徐々に小さなあぶくが出てきて、ふつふつと音がする。あぶくはだんだん増えてきて、音も大きくなっていく。

 

――まだわたしのこと、好きでいてくれてますか?

 

耳元でそう囁かれた気がした。なんだこれは。聞き覚えのある声だった。

 

――あと5年もかかるんだねえ、オープンしたら一緒に行こうね。

 

間違いない、ユナの声だった。中学生のときに初めてできた恋人だ。ユナだと気づくと、鍋の水のあぶくが昇ってきて破裂するごとに、記憶が蘇ってくる。夜の公園で初めてキスをしたときのこと、好きなのにすれ違い始めて、どうしようもない無力感に襲われたこと、そのあとに抱きしめてずっと一緒にいようと、ささやかな誓いをした日のこと……

 

どれもこれもがまるでその当時に戻ったかのように鮮明に、手に取れるくらいにリアルに、記憶が溢れ出てくる。なんで別れたんだっけ、と考えた。そうだ、彼女の気持ちを、俺が受け止めきれずにいて、もうどうしようもなかったんだった。怖かったんだ。俺のことを好きだと言ってくれる彼女の気持ちに疑心暗鬼になることも、信じて、別れが来てしまったときのことも、なにもかもが。

 

……もっと自分に素直になれていれば、なんて、今更になって思う。もう昔のことじゃないか。引きずっているのか?そんなわけはない。別にいま、どうこうするという話ではない。

 

鍋はすでに沸騰していた。徳利を取り出して、テーブルへと向かうと、シンヤが座っていた。高校生になって初めてできた友人で、俺にマーラーの交響曲を教えてくれた奴だ。クレバーだが、奴は万引きの常習犯で、高校二年生のときについに捕まって、そのまま退学になった。

 

目と目が合った。俺たちはふっと笑った。俺は交響曲第1番「巨人」を流した。

 

「なんでこうも、昔のことばかり思い出すんだろう」

 

――別に悪いことじゃないだろう。

 

「まあね。でも、未練もなにもないし、俺はいまをそれなりに楽しくやってるよ」

 

――でも、お前は、あのとき過去を全否定しただろう。過去がなければ現在はない。そんな当たり前のことに気づかずに、お前は「現在」を出発してしまった。これは、その「ひずみ」なんだよ。

 

「別にいいじゃないか。俺は後悔のない人生を生きている。そして、誰に文句を言われることのない生活を送っている。なにが問題だっていうんだ」

 

――問題がないことが問題なんだよ。いいか?人はときに取り返しのつかないことで葛藤したり、後悔したりするものなんだ。それは一見、意味のないことに思えるかもしれない。でもな、その葛藤や後悔の先に、未来はあるんだよ。どうしようもないことで悶え苦しんで、手を伸ばした先にね。お前にいま、なにがある?なにもないだろう?そう、「問題」すらもないから、なにもないんだよ。そこにあるおでんと酒くらいなもんじゃないか?

 

「……そうでもしなきゃ、やってられないんだよ。お前にわかるか?急に周りが敵に見えて、聞こえてくるのは俺への脅迫だけだ。寝ていても足音で目が覚めて、俺を殺しに来たんじゃないかと震える。理由もないのに惨めになって泣いてしまう。死にたいのに死ねない。自殺する気力すらもないんだ。ただ漫然と恐怖と絶望にうちひしがれているだけだ。病院に連れて行かれて、今度は大量の薬を飲まされて。副作用でだるさ以外の感覚はなにもない。俺もそのときの記憶なんてないよ。それでも俺は、休むことを許されなかった。バイト先からは電話は来るし、講義をサボれば親にケツを叩かれて。結局俺は、大学も出たし、就職だってした。体調は良くなったけど、だからこそ、再スタートを切るには、そんな過去を捨てるしかないだろう?だって俺は健常者のフリをしてるんだから。一旦、『ボクは弱い人間です』なんて吐いた日にゃ、それこそおしまいだ。――でも俺はそこまで強い人間じゃない」

 

――人間はそれほど強くはできてないし、かといってそれほど弱くもできてはいない。お前の過去はここにある。そこから探すんだよ。恐怖と絶望の記憶だけじゃないだろう?胸にしまっておきたい、愛おしい記憶だってあるだろう?お前は全部捨ててしまった。だから、この「ひずみ」の中から探すんだよ。かけがえのない「思い出」を。

 

そう言うとシンヤは部屋から出ていった。おでんも燗もまだ熱かった。俺はお猪口に酒を注いで、飲んだ。喉から全身へ、温もりが染み渡る。おでんの大根もよく味がしみている。大手を振って酒が飲める歳になってもう、どれくらいになるだろう。昔は居酒屋になんて入れなかったから、公園で夜を明かしたりしてたっけ。それもおまわりに見つかったら補導されるから、逃げ回りながら。

 

そのときにいろんな打明話をした。楽しかった思い出だ。

 

マーラーの交響曲が鳴り続けるこの部屋で、シンヤと、最高なのは1番と7番とで割れて大喧嘩したことを思い出しながら、おでんをつついた。